第弐拾六話「春秋の集いは夢幻の如く…」


「すみません祐一さん、色々とお付き合い願って」
「いえ、別に構いませんよ。他ならぬ佐祐理さんの頼みですし」
 27日の昼食終了後、佐祐理さんに声を掛けられ放課後付き合って欲しいと言われた。何でも明後日が舞の誕生日で一緒にプレゼントを選定して欲しいとの事だ。さして断る理由も無かったので私は即断し付き合う事にした。
「それで佐祐理さん、参考までに聞きますけど、去年は何を贈ったんです?」
「新渡戸稲造の『武士道』だったと思います」
「…普通女性の誕生日にそんな本贈りますか…?」
「ふえっ?誕生日ですから何か一生に残る本が宜しいかと思いまして…。舞のイメージですと『武士道』が最適かと思いまして」
 確かに舞のイメージからすれば『武士道』も有得るだろうが、今時誕生日に難しい書物を貰って喜ぶ人間が果たして何人居るだろう。もっとも、誕生日に本を与えるあたりが政治家の娘である佐祐理さんらしい行動ではあるが。
「では仮に祐一さんが舞に贈るとしたらどんなのを贈ります?」
「私でしたらレプリカの『正宗』と練習用の等身大の藁人形一式を贈りますね」
「あははーっ、それらも普通女性には贈りませんよー」
「舞のイメージからして日本刀が妥当かなぁ〜と…」
「佐祐理と祐一さん、考えている事が50歩100歩ですね」
「確かに…。それにしてもこのままじゃいい案が浮かばないな…。そうだ!秋子さんに相談してみるってのはどうです?今なら仕事中で街に居る筈ですし」
「名案ですね」
 そういう訳で私と佐祐理さんは秋子さんが働いている店へと向かった。
「…誕生日に渡す贈り物ですか…?」
「ええ。なかなか良い案が浮かばなくて…」
「そうですね…。私でしたら手製の物を贈りますね」
「手製の…を、ですか…?」
「ええ。既製品は大量に出回っていて何処にでもありふれている物ばかりです。その人に対する想いを込めて既製品を買うのであれば別に構わないのですが、やはり既製品では、想いを込めその人の誕生日の為だけに作られた手製の品には敵わないですね」
「成程…」
「プレゼントというのは金銭が掛かっていれば良いというものではありません。どんなに安い物であれその人の気持ちが込められていればいいのですから。手作りのプレゼントは第三者に取ってみれば価値の無いものかもしれません。ですが、与えられた本人にすればそれはどんな既製品よりも掛け替えの無い大切な物になる筈です」
「色々とありがとうございました。それで参考までに聞きますけど、秋子さんがプレゼントされるとしたらどんな物がいいです?」
「私は何も望まないですね」
「えっ!?」
「私はただ、自分の最愛の人が自分の誕生日に私の事を想ってくれる、ただそれだけで構いません。もっとも、今ではそれすら望めないですが…」
「秋子さん…」
「秋子さん、色々とありがとうございました。さっ、行きましょう祐一さん」
「えっ、ええ…」
 場の空気が悪くなったのを見計らい、佐祐理さんが機転をきかせてくれ私達はその場を後にした。
「最愛の人が想ってくれる…、ただそれだけでいいか……」
 秋子さんの最愛の人、それは既に無い…。それでもその現実を認めず相変わらず食卓には毎日のように一人分多い食器類が並べられている。しかし、先程の台詞からいうと、やはり心の何処かでは既に諦めているのだろうか…。
「秋子さんの気持ちよく分かります…。佐祐理も自分が大切にしようと思った弟を亡くしてしまったのですから……」
「佐祐理さん…」
「ですから、今の私にとって何よりの誕生日プレゼントは佐祐理にとって大切な人、舞や祐一さんが日々平穏に過ごしている事です」
「そうですか…。でも困ったなぁ…、秋子さんと佐祐理さんがそれでいいとしても、舞がそれでいいとは限らないし…」
「二人で豪華な誕生日ケーキでも作りますか?」
「ケーキですか。悪くないですが私は料理が苦手なので……」
「佐祐理が手取り足取り教えますが?」
「う〜ん、それも悪いような気がするし…。とりあえず何か絵でも描いてプレゼントします」
「祐一さん、絵は得意なのですか?」
「あまり得意ではないですね。アニメや漫画の絵を模写するのが限界ですし」
「そうですか。でも祐一さんの舞に対する想いが込められていれば上手い下手は関係無いと思いますよ」
「そうですね」
 こうして、佐祐理さんは手作りケーキを、私は手描きの絵を舞にプレゼントする事にした。
「では祐一さん、この辺りで…」
「(!?この気配…)あっ、佐祐理さん、久し振りに佐祐理さんの家でお茶を召し上がりたいのですが…」
「そういえば、以前そんな事を申し上げていましたね。いいですよ、佐祐理も久し振りに祐一さんと二人きりでゆくっりとお話をしたいですし」


「はいどうぞ、祐一さん」
「頂きます佐祐理さん。いい匂いですね、ハーブティーか何かですか?」
「ええ、そうですよ」
 香の良いハーブティーが出され、私は暫しその匂いに浸っていた。その間、佐祐理さんが茶菓子を運んで来る。
「わざわざすみません、茶菓子までご馳走になって」
「いえいえ〜」
 茶菓子をテーブルの上に置き、佐祐理さんも自分のお茶を入れ私の対面に越し掛ける。
「祐一さん、こちらの生活には慣れましたか?」
「ええ。最初の頃は気温差が激しかったり、テレビ番組が少なかったりと大分手間取りましたが、今はもう当たり前の生活になっていますね」
「そうですか。それは良かったです」
「私は幼少の頃から父の仕事の都合で転勤ばかりで1つの土地に定住した事はありませんでした。ただ、この地は母の生まれ故郷なので何度も足を踏み入れています。こうやって足を埋める事によって、改めてこの街が自分にとって一番居心地の良い場所だと思うようになりました。この地は私にとって郷土(クニ)と呼べる場所ですね…」
「郷土(クニ)ですか…。そう言って頂けると嬉しいです。昨今の若者は土地に愛着を感じない者が多いですから、いずれこの地から立ち上がる佐祐理と致しましては祐一さんのような人はありがたい存在です」
「立ち上がるといいますと、佐祐理さんはやはり御父上の後を?」
「ええ。佐祐理の家は祖父から代々政治家でした。その倉田の系譜を継ぐのが幼少の頃からの佐祐理の志です」
「幼少の頃からそんな大きな志を…?ご立派ですね」
「違いますよ…」
「えっ…!?」
「佐祐理が政治家を目指すのは全て自分の罪を償う為です…。自分の夢の為に弟を亡くしてしまった償いの為に……」
「佐祐理さん…、それはどういう意味…」
「聞いて頂けますか…?長い長いお話を……」
「…ええ…」
「佐祐理の父は躾や道徳には厳しい人でしたが、必要最低限の規律さえ守っていれば後は子供の自主性に任せる人でした……」
 佐祐理さんは話を続ける。佐祐理さんはそんな父親に尊敬の念を抱いていた、そして自分もいつか父のような人になりたい…、出来るなら父を超えてみたい…。でもその頃の佐祐理さんは政治は男がやるものだと思っていた。本当はそんな事はないのだが、政治の中心にいるのはいつも男の人ばかりだ…。そして父はいずれ地元6人目の総理になるだろうと謳われている人だ。果たして女である自分にこの偉大過ぎる父の上を目指す事など出来るのだろうか…?
「…そんな時目がいったのは生まれて間もない弟の…、一弥でした……」
 その時佐祐理さんは思った。自分には無理だけど男の弟なら父の上を目指せると…。そして誓った…。弟が物心がついたら自分の手で父親を超える人間に育て上げようと……。
「そして佐祐理は邁進していました…、弟を倉田の系譜を継ぐべく人間に育て上げる事に…。父が尊敬している勝海舟、原敬、「オヤジ」と慕っていた田中角栄の書物を朗読して聞かせてあげたり…、一緒にニュースを見たり…。本当はもっと弟と遊びたかった…、普通の絵本を聞かせて上げたかった…。でも幼い頃から徹底的に教え込まなくてはあの父を超える事など到底不可能…。そう思って遊びたい気持ちを必死で押さえ、全ては弟を父を超える政治家に育て上げる為徹底的に教育していました…。…そんなある日でした…、弟が高熱で倒れ入院したのは…。弟は生まれつき病弱でした…。治療の甲斐なくどんどん弱まって行く弟…、こんな事になるならもっと遊んでおけば良かった…。そうだ…もう止めよう…、こんな事…もし…、もし弟が元気になってまた普通の生活が送れるようになったなら、いっぱい遊んだりいっぱい絵本を聞かせて上げたりしよう……。でも…、その願いは結局叶いませんでした…。弟を亡くしたその時、佐祐理は思いました。それ程までに父を超えたかったなら女という概念に捕らわれずに自分自身を鍛えれば良かった…、最初からそうしていれば弟ともっと充実した生活が送れた筈だ……。その後は先程祐一さんにお話した通りです……」
「そんな事が……」
「祐一さん…、佐祐理の自称の仕方がおかしいと思った事はありません…?年端の女が自分の名前で自称しているのを変だと思った事はありませんか…?」
「えっ、ええ…、初めてお会いした時は多少の違和感は感じました…」
「それは自分自身がやらなくてはならないという事を強く思うようになった結果なのです。佐祐理は佐祐理…、他の誰でも無い…、そして私は倉田の系譜を継ぐ者倉田佐祐理…。その強力なまでのアイデンティティが佐祐理を佐祐理と呼ばせているのです……」
 そう言い終えると佐祐理さんはゆっくりと私に近づいて来た。
「ときどき思う事があります…。もし弟が生きていて、倉田の系譜を継ぐべく日々邁進している佐祐理の背中を見て育っていたらどんな人間になっただろう…。きっと姉の背中に憧れ、姉の後を追い駆けながら自分自身も自然と政の道を志す、そんな人間になっていたのではないか……」
「そして、私がその成長した弟の姿に重なり合ったという事ですね…」
 腰掛けている私を優しく胸元に引き寄せる佐祐理さん…。なんだろうこの感じ…、ずっと以前同じ感じを感じた事があるような気がする……。
「祐一さんを抱いていますと不思議な感じがします…。この間お会いしたばかりなのにずっと以前にもこんな風に祐一さんを抱きしめた事があるような気がします…」
「私もですよ…。もしかしたら私達は前世では恋人同士か何かだったのですね……」
 前世…?違う、佐祐理さんとはもっと近い時、それも恋人とかじゃなく今のように自分にとって優しい姉さんであった気がする…。


「…佐祐理さん…、一つお聞きしていいですか…。佐祐理さんが自分の名前を自称している理由は分かりました…。では年下である私に敬語を使っている理由は何ですか…?」
「…祐一さん、それは祐一さんを尊敬しているからですよ」
「えっ!?」
「世の中には様々な人がいます…。人の上に立ち民衆を統べる者もいれば、人の下で普通の人が避けて通るような仕事をして生活している者もいます…。上に立つ人間も立派ですが、佐祐理は人が避けるような仕事をして影で社会を支えている人間も同じ位立派だと思うのです……」
「……」
「江戸時代、エタ、非人と呼ばれていた人達は偉大です…。彼等は幕府の政策で差別的な人とされ、民衆からは嘲笑や虐げの対象となっていました…。ですが、彼等が死体処理などの農民ですら引き受けない仕事をしていたからこそ社会が成り立っていたのも事実なのです……」
「……」
「車を作るには企画をする人、資金を提供する人、デザインをする人、下請けで車に必要な小さい部品を作る人…、それらの人の誰もが車を作るのに必要な人材であり、欠けてはならない存在です。政治も同じです。政界に望むには多くの有権者の支持が必要です…。それらの人無くして政治家になるのは不可能ですから……。いいですか、祐一さん、社会に貢献している人に必要のない人間など存在しないのです…。そしてその一人一人が何処かで自分を支えているのだと思うと、佐祐理はその一人一人を尊敬せずにはいられません……」
「…佐祐理さん…、立派なお考えです…。貴方がこの国を統治するようになれば、この国は更なる輝きを見せる事でしょう……」
「…祐一さん…、もし佐祐理が代議士になった時、今のように政に関心を示し続けるなら、その時は佐祐理の…、私の秘書になっていただけませんか…?」
「佐祐理さん…、今自分の事を『私』と……」
「祐一さんの前では自分を強める必要は無い…あなたが側にいれば私は強がる必要は無い…。それが私の祐一さんに対する想いです……」
「私に佐祐理さんの秘書は荷が重た過ぎますよ…。でもそれであなたを最大限に支えられるのであれば、私は喜んで勤めさせていただきます…」
「ありがとうございます、祐一さん…」
「…ともうこんな時間だ…。ではそろそろ帰りますので」
「ええ。また暇な時訪ねて来て下さいね」
「ではさようなら」
 佐祐理さんに別れの挨拶をし、私は倉田邸を後にした。
「さようなら祐一さん…。あなたはもしかしたら……」
「…さて…、いい加減隠れていないで出て来たらどうだ、久瀬!」
 街にいた時からずっと感じていた気配、それは殺気立った久瀬の気配だった。その危険な気配を感じたからこそ私は佐祐理を一人にして帰宅させるのは危険だと思い、お茶目的と称し佐祐理さんを自宅まで護衛した。
「佐祐理さんが一人になった所を襲おうとでも思ったのか…。自分より強い者に刃向かう態度は立派だが、あの人に手を出したら私が許さん!この事を肝に銘じ、早々に立ち去るのだな!!」
 流石は久瀬と言うべきか、私が一喝してもなおその姿を現す事はなかった。だが、これだけ言っておけば久瀬と言えども大人しく帰るだろうと安堵し、私は帰路へと就いた。
「…フン、あの人を襲ったら自分の身が危ないからな、それに本人を襲うより親しい人を襲った方が精神的なダメージは大きい…。よって狙おうとしていたのは貴様の方だ!…と言いたい所だったが…、奴は奴で逆に返り討ちに遭いそうだな…。ここはもう少し弱い……」


「う〜んと…ここをこうして……うがぁ〜、駄目だぁ〜!!」
「祐一どうしたの?さっきからうめき声をあげて…」
「名雪か…。いや、明日知り合いが誕生日で記念に絵でも描いて贈ろうと思っているんだが、男の絵を描いているとどうも筋肉質になってしまうんだ…」
 そう言い、私は名雪に描き中の筋肉が当社比200%増の絵を見せた。
「…う〜ん…。ところでこれ贈るの男の人、女の人?」
「一応女の人だが…」
「こんな絵を貰って喜ぶ女の人はあんまりいないと思うよ…」
「やっぱりそうか……」
「でも私だったら祐一が描いた物だったら何でも構わないけど…。…祐一、これ貰ってもいい?」
「そんな変な絵でも構わないなら別にいいけど」
「ありがとう祐一…」
「それにしても秋子さん遅いな…」
「うん…いつもならもうとっくに帰って来ているのに…あっ、電話が鳴ってる…、お母さんからかな……」
 そう言い、名雪は急いで私の部屋を後にした。私も夕食時が近いしそろそろ下で待機していた方がいいだろうと、名雪に少し遅れ下に降りた。
「…そんな…嘘だと言って下さい…。お母さんがお母さんが…」
「どうした名雪!!」
 電話に応対している名雪の様子が尋常ではなったので、私は急いで名雪の元に掛け寄った。
「祐一…、警察から電話があって…、お母さんが…、お母さんが車に轢かれたって……」
「何だって…!?」
「それで…それで…、すぐに病院に運んだけど意識不明で今緊急オペに入っている所だって…」
「落ち着け名雪!それで秋子さんは何処に運ばれたんだ!!」
「学校近くの病院…」
「潤がこの間入院していた病院か…」
「祐一…、祐一…お母さん大丈夫だよね…、きっと助かるよね…?」
「ああ、助かるに決まっているだろ!あの秋子さんがそう簡単にくたばるものものか…」
 しかしその後の結果は無惨なものだった…。病院に行き、秋子さんの容態を訊くと、手は尽くしたが意識が戻らなく恐らく今晩が峠だという事だった……。
「名雪、ご飯ここに置いておくぞ…」
「いらない…お腹空いていないから……」
 病院から帰った後、名雪は気の抜けた殻のようになり、ずっと部屋にこもりっぱなしだった…。
「名雪、秋子さんだって頑張っているんだ、お前が元気をなくしてどうする!?」
「駄目だよ…お母さんきっと助からないよ…」
「名雪…」
「うっく…ぐすっ……お母さん死んじゃうよ…。お父さん、お父さん…どうしてお父さん先に逝っちゃたの…?こんな時お父さんがいてくれたら…。お父さん…お父さん……」
「名雪!!」
 私は名雪の部屋のドアを勢い良く開け、中でうずくまって泣いている名雪を優しく抱きしめた。
「祐一…?」
「名雪…、お前には私が…私が居るだろ!!ずっと側にいてあげるから…。だから泣くのを止めて気を落ち着かせてくれ…。私じゃ不満か…?」
「あったかいよ…あったかいよ…祐一の胸……。ようやく祐一の胸に抱かれる事が出来た……。でも…、この温かみは私だけのものじゃないんだよね……」
「えっ…!?」
「分かっているよ、祐一には昔から想っている人がいる…。7年前この街に来た時からずっと想っている人が……。それにいくら私が想っても祐一と私じゃ関係が近過ぎるから……。だから…だから…、永遠にこの温かみは私だけのものにはならないんだよね……」
「名雪…確かにお前は私の中では一番ではない…。だけど、お前がいたからこそ私はここの生活に馴染める事が出来た、定住地を持たない私がこの地を郷土(クニ)として親しめる事が出来た…。だから…だから…、お前は私にとって欠かせない大切な人だ……」
「大切な人…、そう言ってもらえるだけで嬉しいよ……。ねえ、祐一…、お母さんが良くなるまで、この家に帰って来るまでずっと私の側にいてくれる…?」
「ああ…出来る限りそうするよ…」
「ありがとう、祐一…」
「名雪、今日はもう遅いから寝た方がいい。寝る時位は一人でも大丈夫だろ…?」
「うん……」
「じゃあな、お休み名雪……」
 私は名雪にお休みの挨拶をし、名雪の部屋のドアをそっと閉めた。


(さてと…)
「兄様!」
「真琴、帰って来たか。で、何か分かった事があるか?」
 秋子さんが事故に遭った場所は見通しの良い場所、どう考えても事故など起こる場所ではないと警察に説明された。
 もしかしたら第三者の介入があったかもしれない。そう思い、真琴に「思」の蝦夷の力で現場に残った思念から真相を解き明かしてくれるよう頼んだ。
「事故は秋子さんの不注意じゃなかった…。ある人が秋子さんの隙を狙って道路に突き飛ばしたのよ」
「何っ!?誰なんだそれは!!」
「名前は分からない。でも現場に残っていた強烈な怨念は秋子さんに対するものじゃなく、『佐祐理』という人に対するものだった」
「佐祐理さんに…」
 佐祐理さんに恨みを持つ者…、そう聞いて真っ先に名前が思い浮かんだ、
「久瀬…、奴か!!」
 確信はない、だがこのような下劣な手段を使う者は奴しかいない。そう思い、私は急いで名雪の部屋に行き、名雪を起こさないよう静かにかつ速やかに久瀬の自宅の電話番号が載っている物がないか探した。
「入学者名簿…。奴は私と同年代な筈だから恐らくこれに……」
 名雪の部屋から出、明るい所で目を通す。私のカンは的中し、久瀬の名前と電話番号の記載を見つける事が出来た。
『誰だこんな夜中に…』
「久瀬、貴様か秋子さんをやったのは!」
『その声は佐祐理さんの付人君か…。ククッ…そうだよ彼女を事故に遭わせたのは私だ…』
「何故こんな事をした!!」
『佐祐理さんに対する怨みを晴らす為だ…。本人を傷付けるよりも本人と親しい人を傷付けた方が精神的にダメージを与えられるからね…。本当は君を襲おうと思っていたんだよ、でも君に下手に手を出すと返り討ちにあいそうだったから、君達が店で親しそうに話していた人にターゲットを変えたんだ…』
「この俗物がぁ…!貴様のような奴がいるからこの国が退廃するんだ!!」
 私は込み上げる怒りを押さえる事が出来ず、勢い良く受話器を殴り降ろす。下らない人間の下らない怨みによって、一つの掛け替えのない命が消えようとしているのだ…!
「くそっ!」
「兄様、行く気?」
「ああ。このまま黙って見過ごしている訳には行かないからな」
「意識不明の人間を回復させるのは容易ではないわよ」
「分かっている。分かっているけど私はもう……」
「…分かったわ…。秋子さんは私にとっても大切な人だから。私が何とかして秋子さんの深層意識に話し掛けてみるわ」
「ああ、頼む…」
 こうして私は真琴を連れ秋子さんが入院している病院へと急いだ。


 宵闇に包まれた集中治療室。本来なら面会謝絶であるが、今夜が峠であり親族であるという事から特別に入室が許可された…。
「どうだ真琴…」
「……」
「どうなんだ真琴!」
「…嫌……」
「!?」
「やめて…そんな事言わないで…秋子さん……」
「真琴…、秋子さんは何て言ってるんだ…?」
「『これでようやく夫の元に行ける…。だからこのまま逝かせて……』って……」
「秋子さん…。貴方が亡くなったら名雪はどうするんです!それにずっと…、ずっと自分が一番愛する人を待っていたんじゃなかったんですか!!」
「『でも、10年間待ち続けたけどあの人は戻って来なかった…。だからもうあの人はこの世にはいない……。私はもう待ち疲れました…。祐一さん…名雪の事は宜しく頼みましたよ……』」
「秋子さん!!」
 私は様々な器具が取り付けられ横たわっている秋子さんに無我夢中で力を降り注ぐ。
「…無駄よ…。深層意識は心の奥にあるその人の本能と呼べる真実の想い…。心の奥底から死を願っている人間には何をしても無駄よ……」
 分かってはいた。だが、全て徒労に終わろうとも、私は自分の力が果てるまで力を注ぎ続ける…、このまま目の前で人が死ぬのを見守るよりは遥かにマシなのだから……。


 それは何時頃だっただろう…?私の行いは全て徒労に終わり、私は力尽き半ば眠り掛けていた。だからこれは夢かも知れない…。だけど、廊下の方から3人位の足音が近づいて来た…。
「…院長、案内御苦労だった。尚、先程述べた通りこの事は国家機密にて他言は無用である…。では陛下、私はここで待機しておりますので」
「うむ……」
 会話の後暫くするとドアが開き、その中の一人が治療室の中へ入って来た…。
「…日人…、ようやくお前との約束を果たす時が来たな……」
 何処か懐かしい、太くて優しい声が聞こえて来る……。
(この声…もしかして……)
 その後私は完全な眠りに入り、その後の事は全く覚えていない…。けど、深い眠りに就く前に聞こえて来た声は、まぎれもなく秋子さんの最愛の人春菊さんの声だった……。


「…兄様っ、兄様、朝よ!」
「…うんっ…?真琴か……」
 真琴に呼び掛けられ目覚めた時には既に辺りは光が支配する時になっていた。そして私は何時の間にか治療室前のソファーで眠りに就いていた。
「何時の間にこんな所に…?」
「兄様が力尽きて途中で寝ちゃったから私が外に運んで来たのよ」
「そうか…で、秋子さんは…!」
「峠は越え、奇蹟的に意識は戻った。もっとも、傷は癒えていないから暫く入院は必要だとの事だがな…」
「!!」
 横から聞こえて来る声に驚き、私は声の方向に顔を向ける。そこには軍刀を杖のように抱え、ソファーに座っている老人の姿があった。
「あ…貴方は…?」
 年齢は90歳位だろうか…?しかしその眼光は老齢なれども終始鋭い眼光を放っていた…。
「元海軍少佐、草加拓海(くさかたくみ)…。水瀬春菊の知人の者だ…」
「もと…海軍少佐…!?」
 肝の座った目…、毅然とした態度…、堅実な言動…。それは私が初めて出会った軍人…、嘗ての日本人……。そしてこの時はまだ気付かなかった…。この老人との邂逅が、後の私の運命を…、この国の未来を大きく変える事に……。

…第弐拾六話完

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